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『臨機応答・変問自在〈2〉』――話を聞いてほしくて質問する
 理系大学生を相手に質問に答えた好評の前著に続く第二弾。ネット上で募集をかけて集まったジャンルを問わない質問に、人気ミステリィ作家であり大学助教授である著者が鮮やかに答えていく。大学の先生と生徒という枠を離れた質問は、雑学ネタからおなじみの人生相談ものまでヴァラエティ豊かだ。果たしてどんなQ&Aになったのか、ふるいにかけた様々な質疑応答を公開する。
 なんとなく新書コーナーを眺めていたら(もちろん、古本屋の、ですよ。ははは)発見しました。なんとなく立ち読みしてから、なんとなく買いました。

 前書もそうですが、やはり著者の小説を読んでファンになった人向け、と思います。
 この辺りを考えるのに面白かったのは、「著者は『本書はあなたにとってなんの役に立ちましたか?』と真剣に問いたいと思う」(P.174)と書かれていたこと。本書の質問の中でこれが一番面白い質問だったかな。僕の答えは「ちょっとだけへぇーっと思うこと」と、「自分のものとはまったく異質である、無駄が削ぎ落とされてすっぱりとした(それでもってちょっといじわるな)文章返答を読むのが、感覚的に気持ちいいから」でしょうか。
 たとえばこんなような質疑かな。
Q何故「偽り」は人(ひと)の為(ため)と書くのでしょうか。
 ★作詞をしているのですね?(P.37 一部略)
Q神は笑いますか。
 ★神はいません。(P.202 一部略)
 まあほら、僕ってなんにつけてもぐだぐだしてるからなあ……。「まあ」とか「なんか」とか「とりあえず」とか、すぐにつけちゃうんですよねえ。普段の喋りもこうだから、ちょっとうざいと自分でも思うけども、あはははは。それはさておき、こういうのが小気味いいからかなー、読んだのは。

 あとは部分部分を拾いあげて。

 とりあえず、長いけど引用。
 理系と文系を比べることは、あまり意味があることとは思えないし、その区別も曖昧である。人はもっと複雑だからだ。ただ、「ものごとをきっちり決めたがる」のが理系の傾向だと言われているのは間違いで、それはまったく逆である。理系のスタンスは、物理法則や数学はきっちりと割り切れるものだが、人間や社会といったものはつかみどころがなく、一般的に論じられない、というものだ。一方、文系の学問の中には、まさにそれらを一般的に論じようとするものが数多く存在する。つまり、人の心理や社会の動きに法則性を見出したりすることは、文系の特徴であって、それは理系から眺めると、「どうしてあんなに、ものごとをあんなに杓子定規に決めつけられるのだろう?」と不思議に感じられるのである。(P.14-15)
 これは言われてみればそのとおりの指摘。数少ない僕の知り合いの理系の人間(知り合いも少ないし、理系も少ない)にもまた、割り切れない人間関係に苦しんでいた人がいたなあ。
 ただまあちょっと思うのは、文系の理論ってのは論じようとする際にどうしても「いったん」決めておく必要があるんじゃないかな。論文のタイトルも著者も忘れたけど、学生時代、英語の論文を訳すという二重に読めない文章を読む授業に出ていたことがあって(いま思い返せば、気が狂ってる。いやいや、いい経験だったけども)、そこで書かれていたのが、ようするに社会科学ってのは、とりあえずいったん論を閉じてしまう、そんでもってそれを改変可能にすることでたたき上げていくものだ、ってな内容でした。どうしたって割り切れないものを扱うわけだし、対象も範囲も曖昧だからどれだけ調査しても論考しても決して足りるものではないわけです。だから、「とりあえず」で「いったん」なわけです。そうしないと言い出せない・書き出せないから。そんなことを思いました。

 最後に、この質疑も面白かった。
Qどうして建築物の広さを表すのに、東京ドーム何個分ですというのか? 東京ドームに行ったことのない人にはどれくらい広いのかわからないと思う。
 ★そう思いますが、これを繰り返すうちに、東京ドームがどれくらいか見当がつく、というゲームのようです。(P.60 一部略)
 これとはちょっとちがうけど、一時期何かの量(計れるものじゃなくても可。たとえばいまの嬉しさとか悲しさとかも)を、東京ドーム何個分かで表す遊びをしてました。いったいなんなんだろう、東京ドームというのは。
| エッセイ的な本 | 14:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
『延長戦に入りました』――よけいな妄想の楽しさ
評価:
奥田 英朗
幻冬舎
¥ 520
(2003-06)
 ボブスレーの二番目の選手は何をしているのかと物議を醸し、ボクシングではリングサイドで熱くなる客を注視。さらに、がに股を余儀なくされる女子スケート選手の心の葛藤を慮る、デリケートかつ不条理なスポーツ無責任観戦!読んで・笑って・観戦して、三倍楽しい猛毒エッセイ三十四篇。
 先日、本棚を整理していたらひょっこり出てきた本。結構前に読んだっけなあ、と思い出しながらここに書いてみます。
 上の紹介文のとおり、スポーツにまつわるどうでもよさそうなことを書いている本です。そういえば、父も結構こういう性格だったかも。野球でもボクシングでも客を見ていた気が。まあそういう人って結構いますよね。
 内容は想像どおりといっていいんじゃないかな。何か面白い発見があっても、別にそこから調べてみるわけでもなくて、著者の妄想が続きます。まあなんだろう、そういうくだらない話ほど熱が入るじゃないですか。そんな気持ちを文章にぶち込んで見ましたって感じかな。無責任に熱のこもったバカ話だから、だめな人はだめかも。でも気持ちはわかるなー。僕もこういう話するの好きだからなー。

 面白かった章というか、話についてちょろっとだけ。

・「レスリングのタイツはなぜ乳首をだすのか」
 タイトルのとおり。特に補足もいらなさそう。なんでだろうね。

・「高校野球とコールド負けの青春」
 新聞とかニュースで高校野球の地区予選のスコアを見て、そこに勝手にドラマを感じるって話。書店で働いていたときにやっぱり、この部分がいちばん青春のエッセンスが凝縮されていて面白い、って言う人がいました。強いチームも弱いチームもまぜこぜなのがいいんだろうね。

・「50メートル走タイムと彼の黄金時代」
 50メートル走のタイムがよかったやつってのは、小・中とちょっとしたステータスであり、そのことがのちのちまで影響がある、って話。たしかに、足が速いやつってのはそれだけでスター性があったなー。

・「ボブスレーの前から2番目の選手は何をする人なのか?」
 これは、この競技はどう見たら、あるいは誉めたらいいのかわからない、って話でもある。いちばん前の選手は舵取りだそうで、最後の人は最後まで機体(でいいのかな)を押しつづける仕事があるけど、2,3番目は何の仕事をしてるのか。まあたぶん体重移動とかなんだろうけど、たしかにオリンピックとかで見てても、どのチームも速いけど何がどうすごいのかさっぱりわからなくて、笑ってしまう。

・「スポーツの国際化と名前の困惑」
 これが一番笑えた。やっぱくだらない話が好きなんだなあ僕は。フィンランドの選手がジャンプ競技で4位入賞したらしいんだけど、その選手の名前が「アホネン」だとか、元野球選手の大豊泰昭の本名が「チン・タイホウ」だとか、マニーって選手なんか本名が「マンコビッチ」ですよ、あっはははっははははっははは! こりゃ本名はまずかったろうなー。(参考サイト みんなこういうの好きだなあ) で、最後はこんな風に終わる。
 そうそう。大リーグにはかつて「オッチンコ」という選手もいたそうだ。日本へ来てマンコビッチ選手と対戦したら……。きっと恐ろしいことになっていたにちがいない。(P.190)
 あっははははっははっはははっははは。
| エッセイ的な本 | 15:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
『一度死んでみますか?』
一度死んでみますか?―漫談・メメントモリ
一度死んでみますか?―漫談・メメントモリ
島田 雅彦, しりあがり 寿

 なんかもういいかげんな内容でもいいや。どんどん僕の頭の中の消しゴムがカセットテープを自分宛ての手紙にしちゃうから。まあ意味はありませんけど。とりあえず、「まあ」と「なんか」と「もう」と「とりあえず」で自分が適当に書き出せてるなと確信しました。

 でこの本は3冊200円のセールとかで数合わせ的に買ったという適当な出会い方なんですけども、対談というか、サブタイトルにあるみたいに漫談というかさくっとだらっと適当に、テーマ的には暗いことについて対談したり、往復書簡をかわしたり(はたして往復書簡は“かわす”でいいのだろうか)してる本です。力が抜けててよかったです。

 あとはまあいくつか面白かったところを引用したりすればいいや。
 しりあがり 僕ね、携帯をポケットに入れてるんですけど、手を突っ込んでると固いものを触ってるという安心感があります。昔は、きっとそれが人のチンチンだったんだ(笑)。(P.109)

 これってなんだかすっごいわかりませんか。もう軽く触覚のフェチっぽいってか、そういうのとかあるんでしょうね。煙草とかも、とりあえず口になんかないとだめ、とかあるらしいし、フィギュアもとにかくなでまわすという、触り心地を愛してる人がいるし、かくいうぼくも前の携帯のイヤホン差し込み端子のカバーをポケットの中で開けたり閉めたり開けたり閉めたり閉じたり閉めたりずーっとしてたらカバーが壊れました。なんかポケットの中でいじるの好きなんですよね。その嗜好を携帯が満足させてくれてるんですね。
 コンビニって、そんなに広くない店でもたいがい欲しい物がありますよね。きっとずいぶん緻密なマーケティングデータとかをもとにしてるんだろうけど、なんかこっちの欲しい物を見透かされてるようで悔しくなることがあります。(P.151)

 すでにかなりそうなんだろうけど、この先どれくらいぼくの欲望は先回りされるのだろうか、と思うとちょっと面白くもあり、結構怖いなあ。でもまあすでにだいぶそうだもんなあ。
 あと、抜き出すには長いしちょっとばらけてるから大意を適当に書くと、日本が戦後、焼け跡で闇市と米兵受け入れ施設を作ったのに対し、ドイツでは闇市もあったけど教会やコンサートホールを建て直したそうで、ヨーロッパにとってのキリスト教という文化的な骨みたいなものの有無の差について、島田雅彦が言ってるのが面白かったです。歴史ミステリーで実は天皇がどうちゃらこうちゃらだったー!(ばばーん!)ってやっても、日本じゃあんまり盛り上がらない(たいして非難もされない)んでしょうねきっと。まあそれがいいかわるいかは、ていうかそのことだけで是非を吐けるわけもないけど、ただその差は面白かったです。
| エッセイ的な本 | 01:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
『臨機応答・変問自在―森助教授VS理系大学生』
臨機応答・変問自在―森助教授VS理系大学生
臨機応答・変問自在―森助教授VS理系大学生
森 博嗣

超人気ミステリ作家であり、工学部助教授でもある著者が、理系大学生の珍問・奇問・素朴な疑問に答える。科学から人生相談まで、講義での数万件のQ&Aから、面白いものを選んで構成。(Amazonの「出版社/著者からの内容紹介」から)

 古本屋をぶらぶらしていたら100円新書のコーナーで発見したので買ってみました。一問一答でさっくりと読みやすいです。内容的には、うーんまあ、著者の作品(っていってもひとつのシリーズ、それも途中までしか読んでないんですけど)の雰囲気というか、登場人物や空気感(またあいまいだ)が好きで著者にも興味持ったら読んでみるといいかなあって感じです。個人的には全体として「ふーん」の域は出なかったかなあ。
 ただ、二点とても共感したところがあったので、それを紹介してみます。
 〔人生のアドバイスとはほとんど役に立つことがないが、それが有益なものとして〕成り立つ唯一の条件がある。アドバイスを受ける側の人間が、積極的な姿勢でアドバイスを活かそうとしている場合だ。受け手にその姿勢があるときに限り、おそらくほとんどのアドバイスが有効となる。人生相談というものが見かけ上成立している背景には、このようなメカニズムがあるものと推察する。(P.101)

 まあたしかにそりゃそうで、当たり前ちゃ当たり前なんだけど、なんだかな、やたらと相談に乗りたがる/乗ってもらいたがる人がいっぱいいるんだよなあ。つってもあれは、アルコール的役割みたいな、たんなるコミュニケーションツールなのか、そっから延長されていく下心なのか。でもめんどくさいから、まじめに聞かなくてはならないというのが苦痛だから、ほとんど乗りません。たまにものすんごおおおおくまじめに答えたりするけど(そういうときだってあります)、意味がないのであとになって空しい思いをするんですよね。
 〔お祭りを純粋に楽しんでいる人間が、特に若者を中心として減っていることについて〕どうしてか。普段のほうが面白い、毎日の生活が快適なのだ。自分の下宿(とはもういわないが)へ帰れば、エアコンが効いて、美味しい食べものも、高級な飲みもののもある。テレビで面白いドラマを見ることもできるし、映画も好きなものがいつでもビデオで観られる。楽しいゲームもある。友達とだっていつでもおしゃべりができるのだ。大学祭だからといって大学に泊まり込んでも愉快なことがほとんどない。研究室のコンパになれば、いつもよりまずい料理を狭い場所で食べなければならないのだ。お祭りは日常よりも苦痛な時間に成り下がってしまった。(P.121)

 これはもう、ほんとすごくわかる。そう思ってましたよ。いや、日常のためにある祭り、ケのためにあるハレ、つまり実のところ秩序を安定化するために置かれる適度な混沌とでもいうものじゃなくて、本気で思いっきり突き抜けた非日常空間(それはたまあ〜〜〜〜〜にしか出会えないけど)はね、そりゃ面白いですけど。でも上で書いてあるような大学のイベントなんてたいしたことができるわけでもなし、家に帰って飯食って風呂入って本読んでゲームして寝るほうがどれだけ快適か。
 そんなにみんなで集まって悩みを相談し、相談されて夜を明かしたいのか。年に二度ぐらいしかなかったけど、大学の友人の部屋に数人で泊まりにいくことがありました。最初は勢いもあって適当に過ごすものの、いかんせん、朝が近づいてくると肉体的にも精神的にもだるくなってくるので、大体いつも始発で帰ってました。
 ひどいやつかもしれないけど、でもさあ、実際のところそんなに長い時間一緒に過ごすことに耐えられるのはごくごく親しい友人(もちろんそんな人間がたくさんいるわけはないです)ぐらいじゃないですか? そこのところ、どうなんだろうか。
| エッセイ的な本 | 23:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
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