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☆☆『そして誰もいなくなった』――抑圧の物語として物語りたくなる
評価:
アガサ クリスティー
早川書房
¥ 672
(2003-10)
 さまざまな職業、年齢、経歴の十人がU・N・オーエンと名乗る富豪からインディアン島に招待された。しかし、肝心の招待主は姿を見せず、客たちが立派な食卓についたとき、どこからともなく客たちの過去の犯罪を告発してゆく声が響いてきた。そして童謡のとおりに、一人また一人と…ミステリの女王の最高傑作。
 いやあ、抜群に面白いですね。大して知らないんで言うのもなんだけど、この時点(1939年)で、すでにしてこれがあるんだ、と思うとほんとすごい。いやほんと知らないでいうのもあれだとわかってても、そう思っちゃうぐらいよくできてる、面白いです。「すでにして」ってことでどうでもいいことだけど、つくづくこういうの好きだねえ僕も、と思ってしまうのが以下の部分。
 神経! 医師は肩をぴくりとさせた婦人患者にはありがちのことだ! しかし、医師にはこういう患者がいちばんありがたい。診察を求めてくる婦人のなかばはからだに少しも異常がなく、ただ、退屈なのであった。しかし、はっきりそういってしまっては、彼らは喜ばない![中略]
「ちょっと異常をきたしておりますね――(そこで、ながい難しい名前をいって)――しかし、大したことではありません――このままにしておいてはいけませんが。……なに、処置は簡単ですよ」
 薬は信念を呼び戻す手段だった。(P.16)
 ははは。

 たぶんまだネタバレにはならない範囲なのでここに書きます。なんていうか、『指輪物語』を評して「RPGだよねこれ」というねじれと同じなんでしょうけども、まさに金田一少年をリアルタイムで読んでいた僕とかは、「ああ、これがそうだったのか!」と思う内容で、どういうことかというと、各人が部屋でなぜか口元をにやりとだったり恐れだったりで歪ませてたりして、んでもってコマ内に「!?」とかつけてみたりして、そういう感じのあれは小説でこういう風にできたんだなあと感心しました。ってよくわかりませんか。僕もよくわかりません。
 こういう作品を評価するのは結構難しくて(いつだって評価する、ってのは難しいと思うけど、ここで言いたいのは「とても素朴な印象によるものであっても」という意味でです)、なぜって先の「これって(後世の)〇〇と同じじゃん」みたいに思ったり、逆に「この時代でこれか!」という先駆者の功績みたいなものが余分についてしまうとか、どちらにせよ「振り返ってみれば」という視点がとても強く出てしまうからなんだと思います。まあ批評のやり方として歴史を無視してその作品のみ(極端にやれば同時代の作品や背景などすらも無視して完全に作品のみ!)を見るってのもあるんだろうけど、やはり歴史を捨てて見ることなんかまずできないと思うし、捨てる必要もないのかなと思います。いったん捨てて見てみる、ってのは重要なんだろうけども、どちらかひとつではなく、どっちも必要な視点だと思うので。

 あとはネタバレありの妄想文です。

 最初おやっと思ったのは、舞台がバスカヴィル家のようなじめじめしたものではなく、近代的建築で明るいものだったことです。しかしそれでありながら、どこか不気味な雰囲気が押し込められているような感じがある。
 もし、この邸が暗い影の多い古い建物であったなら、不気味な雰囲気が生まれても、不思議はなかった。しかし、邸は近代建築の粋を凝らしたものだった。暗い隅はなく――壁に仕掛けがありそうなところもなく――電灯があかあかと輝いていて――何もかも、新しく、明るかった。隠れいているものも、隠されてあるものもなかった。それなのに、その明るさがいっそう不気味に感じられるのだった。(P.81)
 近代の合理的なものの考え方のひとつに啓蒙思想というのがあるけど、啓蒙という字は蒙を啓(ひら)くと書くし、原義は光で照らすことだそうです。その象徴的なものとして、街灯などの物理的な明かりが引き合いに出されることがありますが、この邸はまさにホームズの活躍を待つまでもなく闇は晴れているわけです。
 しかも、各登場人物は(エミリー・ブレント老婦人は信仰心が篤く、迷信深い面もありますが)近代的市民社会を生きる人間で、判事、教師、軍人、医師、警部などなどの面々です。アンソニーだってまさに都市文化を生きてるし。先の冗談交じりに引用した医師の考え方なんかもそう。ようするにもうすでに合理的な世界観を生きてるわけなんです。
 なんだけども、各人短く切り取られた場面場面で、ちらちらと不合理な過去を覗かせるわけです。それも合法的な殺人という意味では非常に合理的な、だがしかしどうしても拭い去ることのできない、整理をつけきれていない過去の数々。
 そんな中、だからこそ印象付けられるのはウォーグレイヴの「死んでいる」シーン!(P.201) 停電からの流れで、そこで「死んだ」判事を照らすのは、前近代の照明である蝋燭なんですよ。ずーっと明るい中でここでずとんと暗くなってるんだよなあ。

 ってまあ、ここまで書いといてなんだけど、こうやって近代と前近代とか合理と不合理とかで切り分けていくのは結構簡単だし、ここでもうフロイト的な抑圧って言っちゃってもいいんだろうけど、あまりにもそれっぽすぎるというか、ちょっと警戒心も沸いてきました。まあ言わないよりはましかと思って続けちゃうけど、舞台の島の名前と人形(装置)のインディアンなんかも、岸田秀が『ものぐさ精神分析』でこんなことを書いてます。
 アメリカの独立宣言に表明されている自由、平等、民主の共同幻想の背後には、アメリカ大陸の「発見」当時に北米に一〇〇万はいたと推定される原住民が二〇万を下回るに至った大量虐殺の経験があった。アメリカの共同幻想にはこの経験の抑圧と正当化に支えられている。(P.62)
 そういえば、この本ちゃんと読んでないんだった……ってのはいまはどうでもよくて、実はぜんぜん知らないんだけどマザーグースなんかもちゃんと調べてみればいままでの図式に乗せられたりするのかな。どうなのかな。いつか読んどかなきゃ。

 立ち込めた闇を払うこと。たぶんミステリーにはこういう形式がある(自信はないけど)。でも近代がまた神秘主義もまた呼び込むものであることが結構いろんな本に書いてあったりする。上山安敏の『神話と科学』っていう本には、ヨーロッパにおける19世紀末〜20世紀の近代という文化状況の中に繰り返し、近代が進歩反動を内包していることを指摘する。あと、今読んでいる『ヴァンパイヤー戦争』の解説で知ったんだけど、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』なんかどんぴしゃ1897年の作品で、「吸血鬼なんているわけね―じゃん」と言われた論争ののち出てくるこの物語で、吸血鬼はついに「近代的自我」を付与されたそうだ。ついてにアドルノっていう思想家の『啓蒙の弁証法』って本もそうだったな。しかしこの本は難しすぎてほとんど理解できていないのであった……。ま、まあそれはそれ。
 つまりここでだらだらと書いてきた中で思うのは、こういうことです。すでに晴れていた闇が再び立ち込めること。そういうミステリーの形式もあるんじゃなかろうか。なんだか書いていて森博嗣の作品もちょっと頭をよぎったけど、その話はまた別の機会に、できたら、いいなあ。ちょっとだけ思ったんで、ちょっとだけ書くと、S&Mシリーズなんかはきっと、明かりが生んだ新しい闇を使った感じなんだろうな。『すべてがFになる』なんてそんな気がする。

 などなどなどと、こういうことを考えるとすごく面白いと思うんだけど、この未知が照らされ(かつまた闇が……)るのはいつになるやら。まあ、それもそれってことで。
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| 華・蝶・封・月 日記 | 2007/02/20 11:04 PM |
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