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☆『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 上下巻
 ってわけで、別の記事にしてみました。でもがんばって気楽に書こうと思います。あれ?
 大学一年のとき、お連れ様から借りて読んで以来の再読です。あのときは、こういう書き方もなんだとは思うけどいわゆる“普通の小説”をぜんぜん読んでなくて、なんだかえらく大変だったのが懐かしい。でも彼女と仲良くなりたいってのがあったりして……まあそれはいいや。いま読むとすごくファンタジーで(どちらの世界も)、すごく面白くって夢中で読みました。
 
 
 
 
 
 まず思うのは、これって贅沢な話の作りだよなー、とかですかねえ。ふたつの話とも独立できるレベルっちゃあレベルなわけで、まあそれらが絡んでもっと面白いんですけど。あとはあんまりというかさっぱり詳しくない「セカイ系」論争ではこの作品と主人公のスタンス(外へ逃げるでもなく、外から戦うでもなく、内で戦う、みたいな)はどう捉えられているんだろう、とかがちょっと気になった。セカイ系っていまいちよくわかってないんだけど、これもそうっちゃあそう、ですよね? ちがうのかな……。

 上の話とも関連してくるのかはいまはわからないけど、井辻朱美が言ってたような、世界の重さ、この作品で言うなら「世界の終り」が「ハードボイルド・ワンダーランド」の付属的なものでなくて、どちらが重いとか優先するとか真であるとかってなってなかったのが、もっと正直に言っちゃうと、むしろ前者のほうがこの僕らの現実っぽい後者を飲み込んじゃうってところが面白かったかな。井辻の話はわりと90年代以降のファンタジーの流れとして語られてたように思うけど、85年のこの作品にもそういう部分はあるし、まあそんなこと言い出したらもっとずっとさかのぼれるんだろうけど。
 でもって、上のようなことって「別にこの世界だけじゃないかもよ」っていう視点からこの世界への見方を変えうるから好きなんだけど、なおかつ「世界の終り」においても「ハードボイルド・ワンダーランド」においても、それぞれの主人公がそれぞれの世界の見方を変えていくのがまた面白かったな。前者はまさに直球で世界=自身であってそれを変え、その中で生きていくことを選択するし、後者は終わりへ向かう中で限定的にでも祝福を与え再発見をしたり。感覚に戻っちゃうけど最後のボブ・ディランの感じはたまらないですね。

 最後にまた、いまだに読んでないラブクラフトっぽい雰囲気があって、そこが好きだったりしてさあ……。地底の雰囲気とかすごい好き、大好き。足元になんかよくわからない知らない世界が存在があるかもしれないってのは、ほんと好きだ。よし、もう読むぞ! 次に読むぞ!
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